落ちているアイツの話
アイツについて考えるとどうしても笑ってしまう。
土曜の朝、ジムに行って汗をかいてその後はカフェでモーニングを食べて楽しみにしていた新しい本を読むの♡と
浮ついているわたしの視界に否応無く飛び込んでくるアイツ。
金曜の夜、しこたま飲んだ帰り道に誰かの胃袋から吐かれたアイツである。
目を背けたところで、まっさらな土曜の朝が穢された感は拭えない。
苦々しい気持ちに…なると思いきや、わたしはどうしても笑ってしまう。
どうしても説明がつかなく自分でも手を焼いているのだが、
「げろを見ると笑ってしまう」のである。わたしは。なんでだ。
記憶している中で、今まで生きてきて一番笑った時も、アイツが登場してくる。
会社の先輩の家で飲んでいた時のこと、
大人数でどんちゃん騒ぎをしているなか、中川さん(仮名)という30歳くらいの中肉中背の男性がベランダに倒れていた。
正確に言うと頭からお腹のあたりまではベランダ、お腹から足までが部屋。
ちょうど半分の割合で世界を分断された中川さんの身体は、びくともしていなかった。震えてもいない、助けを求めてもいない。
ただ、彼の口からは大量のアイツが流れ出ていた。
わたしは、自分が狂ったように笑っていたのを覚えている。
今思うと吐いた張本人の中川さんよりもやべー奴だ。怖い。
吐くという行為に対して何らかの思い入れがあるとしか思えない。
実はわたしは大人になってから吐いたことがない。
子供の頃は病気とかで吐いたことあったかもしれないが、とにかく多分、中学生の後半くらいから吐いた記憶がない。
村上春樹の短編に「嘔吐1979」(「回転木馬のデッド・ヒート」に収録、講談社刊)という作品がある。
「彼の吐き気は1979年6月4日にはじまり、同年の7月14日まで続いた。
さらに6月5日から7月14日まで見知らぬ男から毎日電話がかかってきた。
時間はでたらめだったが、ベルが鳴って、彼の名前を言って、ぷつんと切れるのは同じだった。」(wikipediaより引用)
超簡単にいうと以上のようなあらすじで、ちなみに嘔吐と悪戯電話(?)のあいだの関連性については言及されていない。
嘔吐という行為はふつう、何かしらの「非日常」が絡むものだ。たとえば食中毒や風邪、中川さんのような深酒、あと乗り物酔いとか。
にもかかわらず「嘔吐1979」では日常の中になにげなくアイツが顔を見せる。(そこが実にクールだと思う。)物語は淡々と進んでいくし、汚い描写もない。
実はこの作品では、わたしは笑わない。
もしかしてわたしは、自分ではない誰かの非日常に付随する悲喜コモゴモに思いを馳せて笑っているのではないだろうか。
グロくて汚いものを、苦しみながら恥ずかしがりながら身体から出す人間を笑うとは、
神さまの視点で「あぁ愉快愉快、満足満足」と手を叩いていることに他ならないのではないだろうか。
自分は吐いたりしないけど、君たちは色々あって大変だね、あっはっは。
…なんという残酷さ。今日、自分の狂気に気付いてしまった。
自分の中の汚いものを吐き出せて、スッキリ…
してないのは言うまでもない。