【今週の3冊】
今週の3冊は、
【動物と人間の世界認識ーイリュージョンなしに世界は見えないー】(ちくま学芸文庫)日髙敏隆(著)
【生物と無生物のあいだ】(講談社現代新書)福岡伸一(著)
動物と人間の〜についてはブログを書きました。
【蛇儀礼】…は、なんでこれ選んだかというと
蛇に飲み込まれた人の画像というめちゃくちゃグロいやつを興味本位で見てから蛇に興味が出てきてしまったので…。でも蛇入門としてこの本は難しかった〜。
蛇の生体とかそういう話だったら図鑑とか見ればいいけどそうでなくて、
人間と蛇の文化的な関わりとか、宗教的な存在とか(ちょっと怪しいなw)が知りたかったのでテーマ的にはOKなんだけど、なにせ専門的な用語が多い!注釈めっちゃある!いちいち解説見に後ろのページいくのめんどくさい!
もっと読書耐性をつけてから再挑戦しようと誓ったのでした。。
【生物と〜】は、いわずもがな、めっちゃ売れたアレですね。
遅ればせながら読みましたが、↑の【蛇儀礼】の後だったからすごく読みやすくて分かりやすかったw
これもそのうちブログに書きたいです。
今週の3冊は、動物行動学や遺伝子の話など、めちゃくちゃ自分の専門外ジャンルだったのですが文章がすごくわかりやすくて読みやすかったのが印象深いです。(蛇儀礼以外w)
先週から専門的な本を少しずつ読みたいなあと思って小説を抜いて選本しています。が、来週はごりごりのお仕事小説「トヨトミの野望」が控えてます。
これすごく面白そうなので!たのしみです。
世界が違う人たちとうまくやる方法を、動物行動学から学ぶ。
ケンカをした相手に対して「アイツの考えていることはおかしい」と思ってみたり、変なタイミングで喋りだす人に対して「空気読めないなーこの人」と思ってみたり、最近のわたしたちは、自分の世界と他人の世界のギャップにとても敏感だと思います。
どうして相手が見ている/感じている世界と自分のそれらとは、違いがあるんだろう?
「動物と人間の世界認識ーイリュージョンなしに世界は見えないー」(日髙敏隆著:ちくま学芸文庫)は、そんな日常のもやもやが少しだけ晴れるような本でした。
人間が見ている世界と動物が見ている世界が違っているということ自体は周知の事実だと思います。
たとえば人間には「紫外線」は物質として目で見る事は出来ませんが、アゲハチョウはそれを見て、感じることが出来ています。本書はそんな、動物の「世界の見え方」にスポットを当てた、動物行動学の本です。
【ネコは絵を本物と認知する?!】
本書ではいくつもの興味深いケースが紹介されていますが、なかでもネコに関する記述が印象的だったので紹介します。
著者の飼い猫に、以下のような実験をしたのです。
(1)陶器で出来た精巧なネコの置物を見せた。
(2)ネコの毛までリアルに再現されたぬいぐるみを与えた。
(3)実物より大きめに、ネコの絵を線画で描いた画用紙を見せた。
普通に考えたら、どれも動かない、鳴かない、ましてや匂いすらしない。にも関わらず、(1)と(3)では本物のネコに対する反応と同一の反応を示したのです。
このことから、ネコには、彼らの世界のルールに則った見え方が存在していることが分かります。
【アゲハチョウとモンシロチョウでも世界は異なる】
また、同じ蝶というくくりの中でも世界の見え方は違う場合があるようです。
例えば、赤という色をモンシロチョウは認識できませんが、アゲハチョウには分かります。
モンシロチョウは赤い花を認識できないので、アゲハチョウは赤い花のぶん、モンシロチョウより多く蜜を吸える場面があるというわけです。
【個々の生物ごとにイリュージョンが存在する】
本書には「イリュージョン」という言葉が頻出しますが、これは簡単に言うと、
その生き物が主体的に見ている世界のこと。わたしたちが生活している紫外線の見えないこの世界が人間にとってのイリュージョンであり、赤い色が認識できない/存在しない世界がモンシロチョウにとってのイリュージョンなのです。
この世には、それぞれの動物の主体が構築している世界があるだけで、動物の種によってそれは様々に異なっています。ひとつとして同じ世界は存在しない、と著者は主張します。
【絶えず変化するイリュージョン】
かつて、地球は平面だという認識がマジョリティだった頃、人間はその認識を疑うことなく生きていました。そして地球が丸いということになったらなったで、その認識のうえでなんら問題なく暮らしています。
人間では世代によってイリュージョンが変わり、人びとは、そのときそのときのイリュージョンに基づく世界を認識し、構築するということである。…(中略)…世代ないし時代なりの移り変わりに伴うイリュージョンの変化の結果として、ある時間ののちにまた同じイリュージョンを持つに至ることもある。(192頁より引用)
地球が丸い/平面だ という認識もまたイリュージョンと言うことができるとなると、時代の流れと共にそれが変化している点もまたおもしろいです。
【客観的な環境は存在しない??】
動物の種によって見えている世界が違い、また同じ種であっても、世代によってそれが変わっていくのなら、絶対に動かない「客観的な環境」なんて存在しません。
人間ひとりひとりを「種」と考えれば、他人から見えている世界が自分のものと違っていたって当然なのです。
ネコが紙に描かれた絵を自分の仲間だと認識することがあるように、自分の理解の枠を超える世界がそこらかしこに溢れているのが普通なのです。
本書の最後には、人間は
何かを探って考えて新しいイリュージョンを得ることを楽しんでいる (195頁)
と記されています。
人間同士の考え方の差異も、イリュージョンの違いとして楽しめるようになれば、日頃の理解出来ない人間関係のストレスもすこし軽くなるような気がします。
GOGOモンスターの話
「GOGOモンスター」は、ブックデザインとか装幀のことを調べ始めて初期のころに知った作品で、いわずもがな、コズフィッシュ祖父江慎さんの作品。
表1からもう漫画始まってる!
見返しからもう漫画。しかも遊び紙6頁も使って漫画漫画漫画。
お話は「春」「夏」「秋」「冬」「春」と進んでいく。
見返しと遊び紙の分は、お話が始まる前のプロローグ。
(しかも、ノンブルが「-8」から始まって遊び紙の最後のページは「-1」。扉が「0」、かな。このへんも芸が細かい。)
とにかく凝ってるデザインで、花布が天と地で色が違うのだ…。
しかも小口にこんなべったり印刷してるのなんて見たことなくて、当時はびっくりしたなあ。
↓これが天の花布。
↓こっちが地の花布。
2000年に発売されて、2.3年前に電子書籍化されているみたいだけど、この読書体験を電子版でするなんてかなりもったいない気がする。
電子書籍も進化しまくって紙みたいな質感で読めたりするけど、
残りのページがこのくらいでだから…この先の展開はどう収集をつけるんだろう?とか
重さや厚みで感じることも多いんじゃないかな。
450ページで正直、ものとしては重いけどそれがグッドポイントだと思う。
言うまでもないですが中身もすごく面白くて、松本大洋さんの作品の中でも一番好きだなあ。
天狼院書店にてエンタメを体験した話
昨日初めて「天狼院書店」にお邪魔したので今日はその時のことを書いてみよう。
池袋のジュンク堂書店の脇道を5、6分とにかくまっすぐ歩いた場所に、件の本屋さんはひっそりと、あった。
天狼院書店は、本を売っているだけではなく、その先にある「体験」も提供するというコンセプトのお店である。
はて、体験とは?と思いHPを軽く見てみたところ、小説家養成ゼミ、TOEICパーフェクト・ゼミ、漫画ラボ、落語部…カルチャー好きな人に人気がありそうな活動が多いと思いきや、メイク部、ヨガ部なんかもあって、結構幅広いジャンルを網羅している。いわば大人の部活動の場所、といったところだろうか。今回初めて入店した丁度その時も、映画ラボの活動が店内で行われていた。
わたしと友人はイベントには参加せず店内を物色。
やがて店内に真っ黒いカバーがかけられた書籍が陳列されているのを発見する。実は今回の訪問の一番の目的はこの書籍、そう、「7代目 天狼院秘本」だ。
天狼院秘本とは先にも示したとおり黒いカバーで覆われ、タイトルや作者、その他諸々の情報を一切消費者に開示しない状態で売る本を指す。購入者には①タイトル秘密です。②返品できません。③他の人には教えないでください。というルールを課している。
かつて「文庫X」という、書店員の手書きメッセージが印刷されたカバーで本来の表紙を隠した文庫本が5万部の大ヒットになったことは記憶に新しい。
これは盛岡市のある書店員が「この本をもっと多くの人に知ってほしい」という思いから始めた企画で、結果的に5万部以上を売り上げたらしい。
(公式でネタバレしているのであえて言うが)タイトルは「殺人犯はそこにいる」で、ノンフィクション、500頁越え。なかなか、おいそれと買おうと思える代物ではないこの文庫本を、多くの人に手に取ってもらうための企画、それが「文庫X」。不思議とネタバレは広がらなかったらしい。それはひとえに、読了した人たちもまた、企画を始めた書店員と同じように「多くの人に読んで欲しい」という感想を抱いたからに違いない。
「天狼院秘本」は、情報を隠して販売しているという点では「文庫X」と同じだが、それをシリーズ化し、他言無用というルールを敷くことで、文庫Xよりも、本を密度の高いコミュニケーションツールに昇華させている節がある。本を買う行為自体がイベントであり非日常でありエンタメという感じがする。
どちらが優位という話ではなく、本が売れない・若者が本を読まなくなった…など、読書に対する不安なトピックスがささやかれるようになって久しいが、売り方ひとつで風向きは変わるのだ。
友人と二人で顔を見合わせて「あった、あった」とフガフガしていると、店員さんが近づいてきて秘本についてアツく語ってくれた。
先程、購入した「7代目 天狼院秘本」の中身を確認したが、わたしが普段ふつうに書店で見たらまず買わないし恐らく手にも取らない類のジャンルだった。こういう出会いはとてもおもしろい。
きっと中身も面白いに違いない。
イメージとテンション
他者とイメージの共有をすることは、コミュニケーションの上で実に重要なことだ。
方向性というものを複数人で話し合うことが日常的にある。
デザインの仕事なのでトーン&マナーという言葉を使うことが多いのだけど、他の言い方をする人も多い。
たとえば、「この部分は明るい雰囲気で」とか、「整然とした感じで」とか、そんなふうに話は進んでいく。
経験上、「雰囲気」を使う人が多い。「トーン」や「ニュアンス」も多い。
あるとき、外注先のディレクターさんと打ち合わせをしていた時のこと
「では、こことここは同じ調子で…」
なるほど、調子ね。
超頭良い人があえて簡単で読みやすい文章を書く的なスマートさがある。
その後も「調子」という言葉は「トーン」や「雰囲気」と同じ意味合いを保ちながら随所で使用された。
しかしまぁ新しく開発したくなる欲を刺激する課題だ。
「ムード」「趣」「たたずまい」「情緒」「風情」「空気感」…
打ち合わせで使われたら「なに言ってんだ?」って思うだろうけど、けっこう見つかった。
ちなみに私は「テンション」と言うことが多いけど、他に使っている人を見かけたことが無い。
「なに言ってんだ?」って思われているのかも知れない。
アリス君
強烈な個性はなにも外見や内面だけに表れるわけじゃない。
アリスという名前の女性が職場にいる。
彼女は日本人なので名字は普通。(仮に「田中」とする。)
下の名前で呼ぶ関係性ではないので用があるときは「田中さん」と声をかけるが、
そのたびに小さな違和感がわたしの中に静かに蓄積されていくことに気付いた。
このモヤつきは、一体…。
そこに100円が落ちてるのに拾わない気分。
自分の真後ろで大きな物音がしたのに振り向かないでいる気分。
同僚が同じエレベーターに乗っているのになにも話さないでいる気分…。
は。そうか。
名前にアイデンティティーが張り付きすぎて
「田中さん」と呼ぶこと自体を不自然に感じていたのだ。わたしは。
強烈な個性から、目を背けている。逃げている。
明日からは逃げずに下の名前で呼びかけてみよう。
アリスちゃん、だとピンク色のフリルがちらついて甘すぎるので
アリス君、とオジさんが呼ぶみたいに呼んでみたい。
「アリス君、そのネイル、かわいいね」
まじでオジさんみたいになった。